Share

第8話 落ちていく心

Auteur: marimo
last update Dernière mise à jour: 2025-12-24 21:34:32

 会議は驚くほど順調に進んだ。

 亮の作成した資料は帝東の上司だけでなく、宮原ホールディングス側の役員にも高く評価された。

「あなたの資料、とても分かりやすいわ。お父様も褒めてた」

 会議が終わり、退出しようとした亮を亜里沙が呼び止めた。

「あ……それは光栄です。ありがとうございます」

 柔らかい声。

 距離の詰め方が上手い。

 その自然さが、かえって戸惑いを生む。

「ねぇ、佐々木さん。今日のお礼に食事に行かない? 近くにすごく素敵なお店があるの」

「いや、でも……社長にもご迷惑になるんじゃ」

「私が誘ってるんだもの。問題ないわ」

 “当然でしょ?”とでも言うような、自信に満ちた笑み。

 その笑みには、拒絶という選択肢をそっと消し去るような力があった。

 亮は――

 気づけば、静かに頷いていた。

(仕事の延長だ。問題ない)そう自分に言い聞かせながら。

 案内された店は高級ホテルの高層階のラウンジの個室だった。

 壁一面がガラス張りで、足元にまで広がる夜景が宝石のようにきらめいている。

 席につくと、亜里沙がワインを注文し、グラスを揺らしながら亮を見る。

「ねぇ、佐々木さん。あなた、彼女いるの?」

「……はい。います」

 亜里沙は、意外にもふわりと微笑んだ。

「そうなんだ。でも……ちょっと寂しそう」

「寂し……?」

「恋してる人ってね、もっと目が光るの。あなたのは、なんだか曇ってる」

 胸が一瞬、ざわついた。

 楓との最近の空気、自分の中に生まれた小さな不安――

 それを見透かされた気がした。

「……仕事、忙しいだけですよ」

「そういうことにしとく?」

 亜里沙はワイングラスを指でなぞりながら、ゆるく微笑む。

 その指先には奇妙な色気があり、亮の鼓動がわずかに早まる。

「佐々木さんみたいに、才能あって努力する人。私は好きよ」

「……そんな、社交辞令」

「社交辞令じゃなかったら?」

 亜里沙は一歩も引かない。

 視線をそらすことなく、亮をまっすぐに見つめ続けた。

 テーブル上のキャンドルが揺れ、彼女の瞳に赤い光を宿す。

 その熱に、亮の意識がゆっくりと引き寄せられていく。

 亜里沙が身を乗り出し、亮の頬にそっと触れた。

「お礼、してあげる」 囁くような声。

 唇の距離は、指二本ほど。

 そのとき――

 スマホが震え、楓からのメッセージが短く光った。

『仕事終わった?
Continuez à lire ce livre gratuitement
Scanner le code pour télécharger l'application
Chapitre verrouillé

Latest chapter

  • 静かな幸せは、裏切りの匂いがしたー医師・渡辺楓が選んだ、愛という名の代償ー   第55話

     亜里沙を乗せたストレッチャーが処置室に入り、扉が閉まる直前まで、彼女の泣き声は響き続けていた。「りょおぉ……痛いの……ねぇ、ほんとに死んじゃうかもぉ……!」 楓は眉を寄せ、深く息を吐く。(死んじゃう、ねぇ……見た感じ“死ぬほどのケガ”はどこにも見当たらないけど) だが、泣き叫ぶ亜里沙の横には、蒼白な顔をした亮の姿があった。  亮はストレッチャーの横を必死に歩きながら、医師や看護師に頭を下げ続けている。「す、すみません……こいつが、どれくらいの病気なのか……自分では……」 楓は淡々と答えた。「診ないとわかりませんので。邪魔にならないようにしていてください」 触れる声は冷たくも厳しくもない。  ただ“医者としての距離”を保とうとする、いつもより硬い声。 楓の声を聴いた瞬間、亜里沙は驚いた顔をしたが、楓が医者であったことを思い出していた。 亮は少しだけ困ったような顔をし、視線を泳がせた。 だが楓はその表情からすぐに目を逸らし、ストレッチャーの方へ向き直った。(……今日ほど、当直を断ればよかったと思う日はない) 心の中で自嘲しながら、手袋をはめる。  看護師たちも空気を察したのか、必要以上に楓へ話しかけることはしない。 処置室内は妙な緊張に包まれていた。 亜里沙はベッドに移されると、泣き声をさらに一段階高くした。「りょおおおお……痛いの、ほんとに痛いの……! 楓先生、私を殺さないでぇぇぇー……!」 その泣き声に、楓は一瞬だけ動きを止めた。 “楓先生”と言われたことには驚かない。  この病院ではその肩書が当たり前だからだ。 だが、彼女がそれを言う時の妙な親しさと甘さ。  そして隣で亮がそれを止めるでもなく、ただオロオロしていることが――  楓の胸をじわりと冷たくした。「はいはい、痛いのはわかりましたから。ちゃんと診ますので静かにしていてください」 口調は医師としてのそれ。  私情は一切混ぜない。  だが心の奥では、冷たい水がゆっくり広がるような感覚があった。(泣けば亮が抱き寄せてくれる、って思ってるんだろうな……) 亮を横目で見ると、案の定、彼は亜里沙の手を握りしめ、「大丈夫だから……大丈夫だからな?」 と、小さくささやいていた。(……なるほど。今日は“そういう日”ってことね) 楓は淡々とカルテを取り、冷

  • 静かな幸せは、裏切りの匂いがしたー医師・渡辺楓が選んだ、愛という名の代償ー   第54話

     ある日、救命救急センターの当直を頼まれた楓は、白衣の袖を軽くまくりながら医局のソファに腰を下ろしていた。  マグカップから立ち上るコーヒーの蒸気が、ほんのわずかに疲れた瞳を温める。(今日は……暇だといいな。せめて一息つける当直であってほしい) そんな都合のいい願いをこぼした瞬間、医局のスピーカーが無情に鳴った。『救急車、あと三分で到着します。救命センター、急患対応お願いします』 楓は小さく目を閉じ、マグカップを置いた。「……ですよね」 独りごちるように呟くと、白衣を整えて廊下へ出る。  救命センターの扉を押し開けた時、すでに看護師たちは配置につき、モニターや点滴の準備が整えられていた。「楓先生、30代男性。胸痛を訴えています。意識は清明、バイタルはやや不安定です」「了解」 救急車が到着すると、後部ドアが開く。  ストレッチャーに横たわっていたのは、顔面蒼白の若い男性だった。「胸が……締め付けられるように……」 楓は即座に胸部の聴診をし、酸素投与を指示した。(急性冠症候群……でもSTはそこまで大きくない。血圧の下降もない。これは……急性心膜炎の可能性が高いか) 心電図や血液検査を確認しながら、素早く考えをまとめていく。  結果、幸い命に関わる状態ではなく、処置と経過観察で対応できると判断した。「痛み止めを投与して、心エコーの準備を。入院の手配はあとで確認します」「はい、楓先生」 ようやく少しだけ緊張が緩む――その刹那。『救急車、あと二分で到着します。交通外傷です』 スピーカーの声に、楓は思わず空を仰ぎたくなった。(……今日は忙しい当直になりそう) 二台目の救急車が到着すると、今度は20代男性。  自転車同士の衝突で転倒し、右肩から肘にかけての擦過傷、左足首の捻挫、軽度の頭部外傷。「痛っ……痛い……!」「頭を打ってます。CTに回しましょう」 看護師に指示を飛ばしながら、楓は手早く処置を進める。  打撲や裂傷はあるが、骨折や重症の所見はない。(大丈夫。これも応急処置で済む) ほっとしたのも束の間、再びセンターの自動ドア近くが慌ただしくざわついた。『救急車、まもなく入ります。急患です』 三件目――悪い予感しかしない。(嘘でしょ……今日どうなってるの……?) 楓が処置室を出て入り口へ向かった瞬間、救急車

  • 静かな幸せは、裏切りの匂いがしたー医師・渡辺楓が選んだ、愛という名の代償ー   第53話 

     外科医として現場に復帰してからというもの、楓の時間は文字通り“戦場”そのものだった。 朝は誰よりも早く病院に入り、夜は当直か、終電近くの帰宅。  外来、病棟回診、緊急オペ、急患対応――復帰して間もない楓には、実力以前に体力が試される日々が続いた。 ブランクが二年あるとはいえ、楓はもともと優秀な外科医だ。  だが病院はそんな経歴を一切考慮しない。  主任医師の指示のもと、年下の研修医たちと同じ立場で動き、雑務もこなし、当直も回された。 自宅に帰れる日は珍しく、帰れたとしても―― 玄関を開けた瞬間、バッグを落とし、服を脱ぎ、靴も揃えず、その場にしゃがみこんでしまう。(……限界……) それでもベッドに倒れ込む直前、楓はスマホを手に取り、無意識に慎一とのメッセージ画面を開く。《今日もお疲れさん。無理するなよ》 そんな短いメッセージが届いているだけで、呼吸が少しだけ整う気がした。《ありがとう。慎は? 今日は帰れそう?》《たぶん徹夜。企業訴訟で揉めててな。社長同士がもう喧嘩腰》《相変わらず…大変だね》《まあな。でも楓の方が大変だろ》《がんばるよ。ありがとう、慎》 わずかなやり取り。  会えていなくても、文字のやり取りだけで互いの存在を確かめられた。(慎も頑張ってるんだもん。私も……頑張らなくちゃ) そう思えることが楓の支えになっていた。  復帰から一か月が経った頃、楓は救命救急センターの応援に入ることになった。  連日のオペと徹夜明けの外来に加え、救急では土日もお構いなしで患者が運び込まれる。「渡辺先生、心タンポナーデ疑い! 処置室お願いします!」「はい!」 救急の廊下を走るたび、胸の奥が熱くなる。  辛い。眠い。体が重い。  それでも――この瞬間だけは、生きている実感が湧いた。(やっぱり、私はここが好きなんだ) その気持ちに嘘はなかった。  一方の慎一もまた、同じように修羅場をくぐっていた。  医療訴訟、防衛庁関連の案件、企業買収の交渉――  すべてが重なり、深夜のオフィスで書類に埋もれる日々。 時々、楓から《今日、当直……倒れそう……》 とメッセージが届くと、慎一はスマホを見つめて眉を寄せる。《無茶するなよ。お前は強いけど、強いからこそ心配なんだ》 本当は会って顔を見たい。  あの夜、改札で言

  • 静かな幸せは、裏切りの匂いがしたー医師・渡辺楓が選んだ、愛という名の代償ー   第52話 夜風と、言いかけた言葉

     店を出ると、夜の空気は少し冷たかった。  昼間のざわめきが嘘のように静まり、街灯が二人の影を細く伸ばしている。  店内であれほど飲んだワインの余韻が、まだほんのりと身体に残っていた。「寒くないか?」  慎一がそっと楓の肩に手を添えた。「うん、大丈夫。でも……少しだけ涼しいね」「……もう一軒、行く?」 慎一の声はどこか迷いを含んでいた。  帰りたくないのか、帰したくないのか。  楓にはそのどちらにも感じられた。「行きたい気もするけど……」  楓は夜空を見上げ、ゆるく笑う。 「今日はね、慎とたくさん話せたから……それだけで十分」 慎一は歩みを止め、楓の横顔を真っ直ぐに見た。  その目には、何か言いかけて飲み込んだような揺らぎがある。「楓……」「ん?」「……いや。何でもない」 その“何でもない”が、何でもないわけがないことくらい楓にもわかる。  だが慎一が言葉を選んでいることも、同時に伝わってきた。(慎……何を言おうとしたんだろう) 歩き出した慎一の背中に、楓は静かに並ぶ。 駅へ向かう途中の並木道は、冬支度の葉が揺れ、夜の風の音が二人の沈黙を柔らかく包む。  並んで歩くだけで心が穏やかになっていく――そんな不思議な相手だった。 ふと、慎一が言う。「……本当に頑張ってるよな、楓」「え?」「今日の話聞いてて思った。仕事も、恋愛も、自分をごまかさずに向き合ってきたんだろ?そういうの……簡単じゃないよな」「……慎」 優しい声だった。  慰めじゃなく、尊敬のこもった声。「俺は……楓のそういうとこ、ずっと好きだよ」 最後だけ少し声が低くなった。  “好き”という言葉の温度が、頬に残る。(……どういう意味?) 聞き返す勇気はなかった。  訊かなければ、今の関係は壊れずに済む――そんな気もしたから。 二人は駅までの短い距離を、ゆっくりと歩いた。 改札の前で、慎一がふと立ち止まる。「今日は……本当に来てくれてありがとう。そして……楓の隣に立てて、嬉しかった」「私も……ありがとう、慎」 楓が微笑むと、慎一は少し照れたように目を逸らした。  そしておもむろに口を開く。「楓……もし――」 そこまで言って、また言葉を止めた。 胸がどきりと跳ねる。「……いや。続きはまた今度でいいな。今言ったら、たぶん……

  • 静かな幸せは、裏切りの匂いがしたー医師・渡辺楓が選んだ、愛という名の代償ー   第51話

    「……悔しかったの!!」 楓が言い終えたとき、テーブルの上には一瞬だけ静寂が生まれた。  レストランの柔らかい照明が、楓の赤くなった目元を淡く照らし、  その姿を正面から見つめながら、慎一は黙ってワインを一口飲んだ。 まるで楓の感情が落ち着くまで待っているようだった。 やがて慎一は静かに口を開く。「……悔しいって思えるのはさ、楓が本気で生きてきた証拠だよ」「本気……?」「そう。仕事も恋愛も、全部ちゃんと向き合ってたからこそ、胸に残るんだよ。  適当にやってたら、何も感じないまま終わってた」 慎一の声は低く、穏やかで、まるでどんな怒りも悲しみも吸い取ってしまうような響きだった。「でも……」  楓は視線を落とし、指先でグラスの脚をなぞる。「でも? 続けて」「悔しい気持ちって、自分が惨めに感じるじゃない……?   私、あのとき……“価値のない女”になったみたいで」 その言葉を聞いた瞬間、慎一の眉がわずかに動いた。  だが怒りではなく、悲しむような、痛むような表情。「それは違う」 はっきりと、しかし優しい声。「価値がどうとか……そんなの他人が決めるもんじゃない。  もし亮に捨てられたって思ってるなら、それも違う」「……え?」「亮が楓を選ばなかったんじゃない。  “楓が亮に見合わなかった”んじゃない。  単に亮が……楓みたいな真面目な人間の隣に立つ器じゃなかっただけだよ」 楓は言葉を失ったまま、慎一の顔を見ることしかできなかった。「それに……年齢とか、赤いドレスとか、妊娠するとか……  そんなこと言ってマウント取ってくる女なんて、嫉妬してる証拠だよ」 慎一は少しワインを飲み、続けた。「楓は美人だし、頭はいいし、腕は良いし……何より、強い。  あんな子が敵うと思う?」「つよ……い?」  楓は思わず聞き返す。「そうだよ。さっきまで泣いてたのに、一瞬で着替えて歩き出すような女だぞ?  そんな奴、世の中にそういない」 楓は少し笑った。「……それ、褒めてる?」「褒めてる。最高に」 慎一はさらりと言い、楓は照れくさくなってワインをもう一口飲んだ。 そのタイミングで、メインの料理が運ばれてきた。  立ちのぼる香りに、心の重さが少しずつ溶けていく。 ふたりはしばらく黙って食事を口に運んだが、  沈黙は不思

  • 静かな幸せは、裏切りの匂いがしたー医師・渡辺楓が選んだ、愛という名の代償ー   第50話

     ホテルから少し離れた繁華街の灯りに入ると、さっきまで胸の奥を締めつけていた苦しい重さが、不思議と薄らいだ気がした。  慎一の隣を歩いていると、歩幅のリズムも、会話の調子も、自然と昔に戻っていく。「なんか……こうして歩いてると、大学の頃みたいね」 楓がくすっと笑うと、慎一も目尻を柔らかくした。「大学の頃は、こうして二人で歩くのすら緊張してただろ」「してた。慎一、すぐ黙るんだもん」「楓だって、“別に”とか“普通”とか、答えが短かった」「……言われてみれば」 ふたりして笑い合いながら歩くその時間は、つい二年前までの、亮に会う前の“慎一と楓”に戻ったようで――  楓の胸にあった棘が、ひとつずつ抜けていくのを感じた。(……慎一が一緒でよかった) あのホテルで、もしひとりであの二人に会っていたら――。  そのあとひとりで食事をしていたら――。  帰り道、きっと泣きながらタクシーに乗っただろう。 考えるほど、慎一がそばにいることが、心強かった。 そんな温かさを胸に抱えたまま、二人は慎一のお気に入りのレストランに到着した。  看板を見た瞬間、楓は「あれ?」と声を上げた。「ここって……先週、真琴と来たとこ!」「え、真琴も使ってんのか?」  慎一はほんの少しむっとして、楓を見る。「オレが初めて連れてくると思ってたのに」「レストランに誘うのに、“初めて”も何も……」  楓は吹き出した。 だが慎一の悔しそうな横顔が妙に可笑しくて、つい続けた。「でもね、真琴も言ってた。“ここは席と席が離れてて、話聞かれないから落ち着く”って」「……そうなんだよな。そこが好きなんだ」 慎一は言いながら、椅子を引いて楓を座らせた。  その自然な仕草が、昔から変わらず紳士で、胸がほんの少し温かくなる。 メニューを開く前に、慎一がふっと真剣な目をした。「楓。好きなの頼めよ」「もちろん」 メニューを渡された楓は、少しだけ笑って返した。 注文を終え、先にワインが運ばれてくると、慎一がグラスを軽く掲げた。「改めて――就職おめでとう」 落ち着いた声。  決して大げさな言い方ではないのに、その一言が胸に響く。「……ありがとう、慎」 楓は軽くグラスを合わせ、一口飲んだ。 ふと、さっきのホテルでの出来事が胸をかすめた。「ごめんね、慎。ホテルのフレン

Plus de chapitres
Découvrez et lisez de bons romans gratuitement
Accédez gratuitement à un grand nombre de bons romans sur GoodNovel. Téléchargez les livres que vous aimez et lisez où et quand vous voulez.
Lisez des livres gratuitement sur l'APP
Scanner le code pour lire sur l'application
DMCA.com Protection Status